“体験をしないとそのものの本質は分からない”という考え方がある。それは真実だと思うし、自らの不器用さがそれを実践させるに至っていて、僕には実感として分かる部分がある。面倒くさくても、時間がかかっても、本当にそのものの本質に迫る為には実際に動いて経験してみるしかないのだ。
ところで演劇の可視化の話の続きだか、演劇は上記の“体験”に限りなく近い形の出来事として考えてもいいと思う。役者はもちろん、観劇も同じように。可視化と視の字を使っているが、体験に非常に近いと考えていいだろう、って。比較的最近発見された脳の物質にミラーニューロンってものがある。ミラーニューロンが僕らにもたらしている効果は…、例えば誰かがスキーをやっているのを見たとしよう、しかし、見ているだけでも、脳の中ではそれを実際にやっている時と同じような働き方をしているのだ。見る行為は僕らが今まで考えていたより体験にずっと近いことなのです。僕は最近、稽古場で役者にとにかく良い芝居、良い演技を見てほしいと話すが、ミラーニューロンの働きを信じてのことなのですね。また、悪いものを見るのは逆に悪い効果をもたらすし、悪い…、の言葉の解釈はそれぞれに任せますが…、環境に自分がいるとしたら、離れた方がいいと僕は思ってます。他人の行為が見るだけで脳の中では体験に変わる、というのは、恐ろしいことでもあるから…
…生身の人間が目の前で何かをやっているのをライブで見る、ということは、ゲームやネットやコンピューター上でのバーチャルリアリティーなんかより、ずっと擬似体験になるということに、演劇やステージパフォーマンスの価値があると僕は考えます。実は凄いことなんだって。そして同時に、俳優と演出が背負っている責任について思いを巡らせます……
可視化について別の話。鈴木忠志(敬称略)の鈴木メソッドは、過酷な訓練から屈強な肉体を作る…、みたいなイメージがあるが、…実際に厳しい訓練もあるが…、まず、可視化、ということについて考えぬかれた俳優訓練法であると言えると思う。鈴木メソッドが可視化しているのは、呼吸と重心、の2つだ。俳優にとって重要なのは、実際には目には見えない呼吸と重心、この2つのコントロールであって、それを鈴木忠志演出作品に出演する基礎に置く、と言うのが僕から見たメソッド。すべての優れた俳優、スポーツ選手、政治家や武士に至るまでに共通する優れた肉体の側面として、呼吸と重心のコントロールに着目したのは、論としてもかなり高度だと僕は思っている。実際に多くの俳優が、呼吸のコントロールでかなり声の出る俳優になり、重心のコントロールで力強い表現を可能にしている。…
だからと言って僕は安易にメソッドを稽古に取り入れたりはしてない。のはご存知の通り。それには自分なりの理由もあるが、鈴木メソッドは鈴木忠志以外の演出家にとっては両刃の刃だと思っているのです、他のメソッドを取り入れているカンパニーを見ていると… 詳しくは長くなるので… ただ、前にメソッドの十日間を越える濃密なワークショップを見学した時、ああ、そりゃ色んな演出家がメソッドに飛び付くわけだ!と、強く感心したのは事実。凄い、の一言。…そう、メソッドには、曖昧で多様な演出家の仕事に、「こうすればいいよ」って一つの正解を指し示す効果があったのです。これも一種の可視化か…、
僕が常々話している「一人一人の想像力によって理想的にイメージ出来る読書体験」に対し「具体的に誰か人が演じ見せてしまう演劇、その観劇体験」が優ることはあり得るだろうか? という命題と、それを乗り越えようというチャレンジは、何がどうであれ重要なことだと思う。…だが一方、演劇にも「可視化」させるという重要な側面があることは忘れてはならない。
この世の中には隠れていてそのままでは見えにくい、見えないものが沢山ある。それを見えるようにする、という仕事を担うなら、それは社会の中でとても重要な仕事だなぁと僕は思う。人の持つ視野というものは決して広いものではない。大きすぎるもの、小さいと思い込んでいるもの、遠くのもの、近すぎるもの、指向性を持つ優れた器官は時に、様々なものを視野の外に置く。そして、その中には見逃してはいけないもの、勿体ないもの、がやはり沢山ある。演劇がきっとそれを見せよう。可視化の担い手という認識もまた、持っていて良いと思う。