携帯から。 …と、考えると、演劇作品とは親に「見て、見て!」とせがむ子供のような存在ということになる。演劇作品(舞台)=子供。この考えはかなり的を獲ていると思う。演劇の中のPLAY=遊戯性。演出との関係から生み出される、俳優の中の一種の幼児性。ふと、ニーチェの三段の変身の文章(なんてネーミングだったっけか?)を思い出す。大きなモノを背負うことで感じる自分の強さに喜びを見いだすラクダから、すべてを欲しいままに奪う龍に変身し、最終段階として幼子に変身するという、成長のプロセスの話だ。演劇作品とは、人の成長の最終段階であるところの、幼子、と言えなくはないか? まあ、それはもう少し深くちゃんと考えなくてはならないが… ただ、そう言えば過去の自分の上演作に「見て、見て!」(再演して!)とせがまれる幻想、幻聴は、正直、あるなぁ、と思ったりもする。
メインの話の『棲み込む』アプローチは、何にでも応用して考えることが出来るし、少し色々みんなで考えてほしいなぁ、と思う。僕にとっても未知のことだし。 …ただ、未知であるのに何だか確信めいたモノを感じているこれは、まさに『暗黙知』なのではないだろうか?
「暗黙知」と「棲み込み」の話、R+ Working☆Shoppingテキストのためのメモ
R+ Working☆Shopping(ワーキング☆ショッピング)は演出家・長堀博士が行なっている「ing=現在進行形」のワークショップから、具体的に役に立つ俳優の技術を学び、公演(発表会)までを行なう、RAKUENOH+の事業の一つです。現在の演劇界に、この位置からもこういう活動を行なっていくことが大事と考えています。このテキストは、その際に配布したいと考えながら書いた下書き。全体のごく一部ですが・・・
演劇とはコミュニケーションの分野である。と話し始めて随分長いことになる。まず観客と舞台との関係。観客の「見る」という行為は、一見受け身のように思われがちだが、「見る」ことが他人に及ぼす「影響」を考えると、見ることの中に内包される「雄弁さ」には驚かさざるを得ない。例えば、子供にとっての親を代表とする他者からの視線は、「見られていない時の行為は何もやっていないに等しい」と言われるくらいの重要度を持つ。何をするにも「見て、見て」と確認をする子供の行動には、人間の中の原初的な衝動を根源とした意味がある。子供の行動は他者からの視線があって初めて成立するのだ。それは、どんな人の行為も「他人から認められたい」という文脈に置き換えて語ることが可能である、という話につながっていく。「他人から認められたい」なんて、身も蓋もない!、と思われる人もいるだろうか。だが、社会という形で集団を形成する生き物である人間、人類にとって、他者との関係こそがすべての行動の動機になると言っても過言ではない。それを踏まえた上で、演劇の話をしていこうと思う。演劇とはコミュニケーションの分野である。演劇は、社会から認められたい、という考え方からでも語ることが出来る。「楽しんで欲しい」「ビックリさせたい」「売れたい」「お金を稼ぎたい」等々、演劇をやる目的は様々だろう。すでにプロになっていて仕事として否応もなくやっている人だっているだろう。だが、視点を変えるとすべては「コミュニケーション」である。無闇に走るのではなく、しっかりと自身を見つめ、自分の目的を自分で知っていることは大切なことだと考える。今一度「他人から認められたい」人間の性から出発してみよう。
上記を考えに入れると、舞台作品とはどこまでが舞台作品か?と考える際に、単に舞台の上で行なわれている芝居だけが舞台作品ではなく、観客席をも含めた「劇場」で起きるすべてが一つの作品だと考えることが出来る。観客の視線や反応が稽古を行なった芝居に与える影響も作品だし、1人の観客の笑い声や泣き声などがその横の観客に与える影響も一つの作品に他ならない。例えば、制作という仕事が客席を埋めるために行なっている仕事も、役者はもとより、照明や音響などと同様に舞台作品の一部分の仕事と考えることが出来る。舞台は「コミュニケーション」という考えは、舞台作品の枠を限りなく大きく広げる。
その中心にいるのが、観客の存在であることは明白だ。俳優もかなり重要だが、「もしも」と、観客がまったく存在しない場合を考えると、まるで量子力学の「観察者が存在しないとそのものが不確定になる」話のように、「その舞台作品が存在しない」ことと同じになってしまう。TV映画の台詞で流行った「事件は会議室で起こってるんじゃない!」って文句を借りるなら、「芝居は舞台の上で起こってるんじゃない! 観客の心の中で起こってるんだっ!!」となる。
僕ら演劇人が「認められたい」と語る際の中心に置くべきなのは、「観客の心の中で起こっていること」と考えても良いと思う。それが喜劇であれ、悲劇であれ、もっと複雑なテーマを扱ったものであれ、観客の心を動かさないと意味をなさない。「説得力」という言葉があるが、演劇には「説得力」が必要だ。ところで「説得」という言葉から具体的な行為をイメージしてもらいたい。作品が観客に行なっていることは、一種の「説得」と言える。観客は大人しく舞台を観劇する義務を持たず、責任も担ってなんかいない。例えば観劇中に「つまらない!」と叫んで暴れても・・・、良いとは言わないが、それは自由ではある。「お客様は神様です」という言葉があるが、観客は神にでも悪魔にでもなる恐ろしい存在でもある。ちょっと僕が勝手にイメージするのは、神社に奉られる「神様」とは近い印象かも知れない。神社の神様はある意味では暴れないように鎮魂されている側面がある。演劇は、この視点では観客への「説得」行為ということになる。どうか暴れませんように(笑)
もちろん、その「説得」の武器は、広義の「面白さ」ということであり、「心を動かす」ことで成立する。喜劇なら「笑い」という「面白さ」、悲劇なら「涙」、「知的な好奇心を満たしたり」「わくわく、ドキドキさせたり」「感動させたり」等々、それら全部をひっくるめての広い意味での「面白さ」だ。
ここで一回まとめ・・・、ここまでの話で、観客の心を動かし、面白さを引き出し、説得力を持つ演劇作品を作ることを僕らが演劇を行なう目的と仮定することとしよう。この先の話の出発点にこれを置くとして・・・、では、その為に必要なことは何だろうか? を考えてみる。例えばよく「役者に必要なことは?」なんて質問が飛び交うことがあるが、それへの明確な答えとは一体何であろうか? ・・・もちろん、それをたった一つの答えに集約させることは乱暴であるのだが、ちょっと考えてみたいと思う。
ここで、タイトルにもなっている「暗黙知」と「棲み込む」ということについて話し始めたいと思う。実は、これから話す話は、過去~今まで自分の演劇を語る上で考えていたことから、ちょっと反目する部分がある。反目という言葉よりは、「メタ」、つまり「超えた」考え方と言っても良いか。考え方は別に目新しくもないのだろうが、僕にはけっこう目から鱗で、ここから新しく「次」の演劇をスタートさせたいという気持ちがある。
そして、「次」の「新しい」演劇について、一緒に歩む仲間が欲しいと切に望んでもいることを、ここに一度記しておきたい。この「ワーキング☆ショッピング」は、あるいは「楽園王」を「RAKUENOH+」と改名して活動の方針を少し変更したことには、良い作品づくりを追求していくと、どうしても「人づくり」を考えなければならない、という問題からスタートしている。良い演出家がいるだけでは足りず、また、良い俳優が一部いるだけでも足りず、総じて優れた俳優がいることが、良い作品を一発屋的に一回作るだけでなく、常に上演し続けることを可能とする。これは、肌で感じる実感からくる真実で、このカンパニーが恒常的に優れた面白い作品を上演するためにも、カンパニーの枠を越えて演劇というものが優れた芸術やエンターテイメントであるためにも、必要なことを行なっていこうと考えてのことだ。良い俳優との新しい出会いや、良い俳優がここから育っていくことを、真面目に考えて行なっていきたい。では話を本当に本題に。
これからお話しするのは、マイケル・ポランニーの「暗黙知の次元」に詳しい。「暗黙知」とは「知る力」の一つで、「それとは意識しないままに知ってしまう」一種の能力のことだ。例えばプランクが量子論を、アインシュタインが「相対性理論」を確信したのは、その確信を担保する証拠が山のようにあったわけではない。(そんな例証は誰でも沢山見つけられるだろう)どうして天啓に似た閃きが彼らにだけ訪れたのか? その機能は分らないが、そこに、人間にある「知らないうちに知ってしまう」能力の存在が見えてくる。それへと到る方法として「棲み込む」という考えを示したのがポランニーだ。
「棲み込む」というのは、何か対象に迫るアプローチの方法だ。人に「棲み込む」と言えば、その人の立場に立って、その人の気持ちになり、その人の視線で周囲を見る、ということ。何に苦労し、何に楽しさをおぼえているのか理解が出来る。これは一つの研究の方法の一つだ。そして、演劇に触れている人になら簡単に分ると思うが、俳優が役を演じる際に行なっていることに近い。この方法は、文化人類学ではよく用いられる方法だ。例えば、見知らぬ土地に行って、雨乞いの儀式を見て、外からどんなに機能分析を行なっても、その儀式の機能的な意味は分っても、どんな性格のものなのかは分らない。その人達がその儀式を行なうのは、何かへの畏れか、政治的な強制か、自身の喜びに直結したものか、可能性は色々あるだろうが、どういう意味を持って行なっているのは、分析だけでは足りないのだ。そこで文字通りに「棲み込む」ことになる。生活を共にし、彼らとの喜びや悲しみの共有があり、冗談が理解できるくらいまでになった時に、初めて正確な(そして重要な)成果へとつながっていく。その為に、人類学者は、何年も現地に住み、その文化の中で生活を共にする、という研究方法を取る。これは、俳優が一つの役を演じる際に必要とされる「深さ」の問題として置き換えて考えられないか。また、実は単に役を演じる際の問題ではなく、カンパニーに参加する際の問題としても考えることが出来ると僕は考えた。カンパニーはカンパニー毎がそれぞれ違う一つの「文化圏」だと考えることが出来る。それぞれがそれぞれの中に他人には理解できない共通言語を持っている。それぞれのカンパニーによって上演される作品の持つ「文化の差」も、見れば見るほど、そこにある「隔たり」が明らかになってくる。が、実は制作の現場、稽古の現場を見るともっとクリアに、もっと大きな「隔たり」が見えてくると考えられる。僕は、1人の俳優の、たった1回の客演では達成できない何かがそこには必ずある、と実感してきたが、この「棲み込み」の足りなさに原因を求めてもいいのでは?と、現在では感じている。ある短くない期間のそのカンパニーへの関わりで、初めて見えてくるものがあり、それが例えば俳優が役を演じる際のレヴェルに、作品やカンパニーのレヴェルに大きく係わってくると考えている。
単に「長く付き合う」ということの重要性。「深さ」を獲得して、レヴェルへと反映される一つの方法。逆に言えば、次々と様々な場所に1回限りの客演を繰り返すことでは、決して達成できないフィールドがそこにはある、と現在進行形で今僕は実感しているのだ。それは、役を演じるアプローチでも同様だ。例えば、ある作家の作品ばかりに出演することには意味があるし、古典か、現代劇か、あるいは、日本人作家の戯曲か、翻訳劇か、そこに出演する作品の傾向を持つことには意味があると考えられる。
ここでさっきの「良い俳優とは?」と質問だが、良い俳優はこの「棲み込む」能力に優れている、と言ってもいいと考えている。しかし、誤解しないで欲しいのは、逆のアプローチ、つまり知識や過去の経験を駆使しての客観的な分析力、理解力の話ではない、むしろ今は逆の話をしている、ということだ。「木を見て、森を見ない」ことはマイナスの意味のことわざだが、ここで話しているのは、まさにこれを勧めるようなことなのだから。言葉を言い換えるのなら、「境界線を曖昧に出来る能力」と言ってもいいだろう。これは、実はどんなに進化してもコンピューターに決して出来ないと言う意味で、人間の人間たらしめている特別な能力と言える。外からの客観的な分析では、もうとっくにコンピューターは人間を凌駕している。数量化できるものに関しては、人間は機械に敵わない。だが、この「棲み込む」アプローチは、人間にしか出来ないことなのだ。そして、そこから、より高い成果・・・、発見や、発明、芸術的な価値が生み出されるのではないか。
と、でも、ここで逆のアプローチ、・・・従来の自然科学を中心に発展してきたアプローチも紹介したいと思う。さっきの「木を見て、森を見ない」の話でも分る通り、上記してきたことは、ある意味では「良いこと」とはされてこなかった方法なのだ。僕自身、十代の頃からの自分の実家の部屋の壁には「木を見るな、森を見ろ!」の言葉を張り紙していた。「客観」こそが、最も重要な「生きる方法」と考えていたのだ。そして、それは今でも間違いではないと思う部分も捨ててはいない。僕の今まで演劇の現場で話してきたすべてが、「自分を客観的に見る」話に帰結する事は明白だ。自分を自分で客観的に見ることが、正しく自分をコントロールし、良い方向に導くことが出来る、との考えは淀みがなくて整然としていて美しいとさえ思う。・・・従来の科学の世界では、研究者は対象とは出来る限り距離を置くことが肝要だとされる。研究者は言わば、神の視点に立って、対象の規則性を導き出していく。科学者とは、現実世界とは一定の距離を置くべきで、その対象を巡る現実の渦の中に巻き込まれてしまっては、科学者の存在意義まで失ってしまう。科学とは、常に認識優位の立場に立ち、客観性や再現性や信頼性を確保することで発展すると信じられてきた。そんな科学の世界では、対象に「棲み込む」なんて言うのは禁じ手に違いない。
僕は、ほんの少し前まで、「客観的に自分を見られる人」が優れた俳優であると話してきたと思う。今は、上記したように、逆の「棲み込む」能力が気になって仕方がない。それは、矛盾する2つであるにも係わらず。
簡単に解決してしまえば、その2つの絶妙なバランスが大事だと言うことが出来る。どちらも、矛盾していても、大事に見えるからだ。僕はこういう考えに到る前にも、「木を見るな、森を見ろ!」と言いながら、「渦中にいるのに、全体を見る目を持つことは出来ない」という問題も話してきていた。それを解決する手段として、「想像力」という言葉を持ち出した。「想像力」の話は、また別の話から長々と話すことがあるが、ここでは置いておいて・・・、
「渦(森)中にありながら、想像力を豊かにして、働かせて、森を見る境地も得る」ことを解決策とした。それは、やはり科学的に整然としていてスッキリする。
だが、正直な話、具体的に稽古の現場、本番の現場で、それではすべてが解決してこなかった実感があるのも事実なのだ。リアルにはリアルの側の問題が起こる。求める成果に、肉薄した部分もあると考えているが、到達しない人、あるいは事例がやはりあると思われる。そこに、人が「暗黙知」に到る「棲み込む」能力の考えを経て、考えを変えてみても良いのでは? と思うようになった。あるいは、誰かが自然科学的なアプローチで頑張っても越えられない線を、彼女が易々と越えている現実の説明に、その彼女の「棲み込む」能力の高さある、と考えられると思うのだ。「客観」という「知」ではなく、これもまた「知」だと認めても良いと思う。彼女が選択する芝居が良い時、でもその選択に必要な客観的な証拠が揃っているわけではない場合が多い。と見える。彼女は「暗黙知」を使って正しい選択を導き出しているとは考えられないか? 「客観」という「知」ではなく、これもまた「知」だと認めても良いと思う。そして、これを認め、受け入れることもまた「知」だろう。進化とはそういうことだ。・・・芸術とは、RAKUENOH+のホームページの頭にもあるが、「脳の実験」という意味がある。脳は芸術という実験を通して、進化していくという話があるのだ。だとすれば、今回の方向転換には実験としての深い意味がある。と僕は今考えている。
話が長くなったが、具体的には、僕としては今は長く個々の俳優と付き合っていきたいと考えている。あるいは、より深く係わることにも意味を見出したい。一つの文化圏としてのカンパニーに、長期で、あるいは何回か係わることで見えてくることを大事にし、共通言語を持ち、そこから一つの成果へと到達するのではないか? そう考えてみる。この混沌の中で劇団化を急ぐつもりはないが、例えば、新しい俳優を育むこの企画、「ワーキング☆ショッピング」を単に新しい俳優との1回限りの出会いの場とせず、長くどういう形でか係わりが継続し、結果的に世界に通用する俳優の発信へとつなげていきたいと考えてみている。大げさではなく、大真面目に。
「次」を見てみたい、経験していきたいと思うのだ。
だから、観客の心を動かし、面白さを引き出し、説得力を持つ演劇作品を作ることを僕らが演劇を行なう目的とした時、この新しいアプローチからスタートしてみたい。机上の空論ではなく、リアルへの対応として。脚本へのアプローチ。稽古場へのアプローチ。そして俳優個々へのアプローチ。神の視点からのアプローチの限界から、現実の渦の中へ。下りていく。深く入り込んでいく・・・・・・
RAKUENOH+ 演出家 長堀博士
(去年の年末、奥村拓君って俳優が、1人の俳優に8人の演出家にぶつけ、それぞれに短編一人芝居を稽古つけてもらい上演するっていう無茶な企画がありました。以下は、その時に書いてお客様に渡したものです。ちなみに「華燭」という芝居はかなり気に入って、今後も演出の機会、上演の機会を作りたいと考えています。では、以下、)
初めての方には、初めまして。
お久しぶりの方には、どうもお久しぶりです。お元気でしたか?
いつもいつもの方には、本当、いっつもありがとうございます。RAKUENOH+の長堀です。
・・・という書き出しの手紙を書き始めて、実はもう18年にもなります。最初は漢字で「楽園王の・・・」でしたが、今は英語に「+」の文字をつけています。主に一度僕のお芝居を観劇下さった方へ郵便で送ることの多い「・・・の手紙」ですが、今回、きっと初めてのお客様も多いだろうと、自己紹介を兼ねて、ちょっと書いてみることにしました。よろしくお願いします。いつもですが、長いです(笑)
僕、長堀博士の演出作品は、今回は舟橋聖一さんという小説家の方の短編小説をそのまま舞台化しています。「華燭」というタイトルで、たぶん終盤に上演されるはずです。 この短編は、北村薫さんと宮部みゆきさんが集められて出版されている『名短編、さらにあり』(ちくま文庫)の中に収められています。・・・ので、舟橋先生に関して詳しくは、ぜひその本を買って読んでいただいて、と思うのですが、昭和の大流行作家であったこと、また、舞台演劇にかなり精通されていて劇団をやっていらした時期がある、とだけはお伝えしておこうと思います。観劇された後にはきっと、ああ、だからこういう短編が書けたのだなぁ、と多くの方が思われるのではないでしょうか・・・
さて、この「華燭」は短編小説です。戯曲として書かれたものではありません。それは、実は僕にとって大きなハードルになっています。実は僕は演出家として、自分が書いた作品でも50くらい上演していて、古典戯曲や文学作品なども入れると70くらいの演出作品があります。そして、そういう量を経験する中で、ライバルと言おうか、敵対心を抱く「表現」がこの世の中に存在することに気づかされます。それが「小説」、それを読むという「読書体験」です。具体的に人が演じてしまう「舞台」、お客さんにとっての「観劇体験」と比較すると、頭の中で好きにイメージできる「読書」という行為は、とても強敵なのです。例えば、多くの人が経験したことがあると思うのですが、好きな小説が舞台化や映画化された時に露呈することがあります。ね? 漫画がアニメになった時でさえ、声を誰かが具体的に演じる、ことで「んー」となることがあります。劇作家として戯曲を書き、また舞台を演出する人間として、僕はいつの間にかかなり意識して、「読書体験」に匹敵する(優る?)表現の形、ということを考えるようになりました。
そして、そんな中で模索していることが、「日常のリアリティ」にこだわらず、「舞台の上の別のリアリティ」を自分なりに作り出す、ということです。昔、能や歌舞伎しかないような時代から、その後に近現代劇が西洋からやってきて、そして現在に至るまで、舞台の上の表現はどんどん「日常的」になってきています。過去の舞台をアンチテーゼに、「普通はこんなことしないよね」「普通ならこうするよね」って志向が舞台表現を変えていき、現在では本当、日常と変わりがないような作品が多く作られるようになりました。でも、実はそのことは「舞台俳優のアマチュア化」という大きな問題をはらんでいます。今の時代の良い作品、良い公演の俳優が、実は舞台表現者としての経験も浅く、何の訓練も積んでいない、なんてことは日常茶飯事になってきています。・・・そして、僕は考えたのです。過去存在した舞台をアンチテーゼに、なんて形で相手にしていては、どうも舞台演劇はおかしな方向に行くぞ、と。 そして、ん? 例えば「読書体験」をライバルに選ぶと、お、こりゃ、もっともっと舞台は良い方向に進化していくのではないか!? と・・・・・
はい。話が長くなりましたが、僕が演出している方法は、こういうことを背景にしています。つまり何が言いたいかと言うと「日常のリアリティ」なんて追求していないのですね。例えば、これは現代劇だけど、歌舞伎や能のように、そこだけにしかない独自の世界観を表現しようと、それを目指している! そんな言い方でいいと思います。
まあ、実際には、ただ気楽に観ていただければいいのですが(笑) あれ?なんであんな喋り方になってるんだろう? と思ったら、これが実はその理由の一つなのです。
・・・はてさて、そんな訳で、今回の「小説」として発表されたものを「舞台化」、ということが、実はダイレクトにハードルの高い、プレッシャーのかかるものだってことが分るでしょうか? 僕にとっては、恐ろしいことなのですよ。なんせ相手は「頭の中に自由に生れる想像力の世界」なのですから。
今回の「華燭」は、僕にとってそんな上演作品なのです。そんな挑戦作を、もし気に入っていただけたら大変嬉しく思います。何か感想がありましたぜひお聞かせ下さい。そして、もしよかったら、今後も長堀の作品を観ていただけたら、と思っています。あ、はい、こっから宣伝です。これが需要!(笑)
(中略)
・・・そんな感じで、来年は長堀って人が書いたり、演出したり、もしくは裏で仕事したりの公演が沢山あります!! ぜひ、どうかよろしくお願いします。
ホームページ、http://rakuenoh-plus.net/ を、よかったら覗いてみて下さい。最近更新していませんが、何か情報がありましたら随時ここで発表していきます。
今後とも、RAKUENOH+、あと、奥村君をどうぞよろしくお願いします。今回は良い機会をありがとう。
今回はけっこう駅から長い距離、足をお運び、ありがとうございます。ぜひ楽しんで帰って下さい。
RAKUENOH+ 長堀博士