芸術文化振興基金からの助成金は、都や企業からの出資金を“運用”した利益を還元する形で出されている。こういう場合の“運用”だが、日本では、何にどの割合で等、公表されないことが多い。さて、何はどうあれ、この限りなく恐慌に近い経済状態で、まさか運用に成功しているとは思えない。果たして助成金なんか出せる状態なのだろうか? 基金の破綻ってこともありえるのでは?
ところで、TV番組が一番分かりやすいが、芸能には、スポンサーによる広告料によって維持されているもの、こと、が恐ろしく多い。お芝居の公演もコンサートも、決してチケット収入で維持されているわけではなく、スポンサー、何かの形でのパトロンが、必ずお金を必ず出している。大劇場ならそれは企業や上記したような助成金だし、小劇場なら主催者や参加している俳優達が自らパトロンになっている…、場合が多いですね。
…昔っからかなりしつこく言い続けていることだが、文化芸能は景気の影響をかなりダイレクトに受ける世界だ。はるか昔、小劇場ブームなんて呼ばれる時代があったが、何のことはない、景気が良くて余暇に使う金が世の中に余っていたに過ぎない。…今の不況は芸能に必ず、かなり暗い影を落とします。常識的に考えて5年間くらいは。あるいはそれ以上長く。文化芸能に金を出す企業も国もなく、客足は遠退きチケット収入も得られない。これが正しい現状認識。
さて、それを踏まえた上で、今だからこその舞台活動を行うべきだと、僕は考えている。カンパニーを主宰する者として、単に維持ではなく、舞台芸術の向上に貢献すべき立場の者として、豊富な経験とそこからの『知』を持つ僕らは、この与えられたフィールドを走り抜ける方法を何としてもひねり出す必要がある。 …これからのRAKUENOH+の活動、また、僕個人長堀博士の活動は、それを意識したものになると思う。また、俳優個人個人にも、社会の中の自分について、ちょっと考えてみてほしい。舞台活動は、まぎれもない社会活動なのだから。
何か行動を起こす時に、期は熟した、と言ったりする。熟す、という言葉から察するに、その後に起こす行動とは収穫的な意味のものに違いない。そして前に戻って考えるに、熟すに到るまでにもまた、単に待っているだけではなく、水をあげたり、肥料をあげたり、くらいのことが必要なのだ。少なくとも、種は蒔かなきゃ発芽すらしない。種を蒔き、育む、と言うこと…、収穫という行動に到るまでの、行動前行動とでも言うべきことについて考えてみよう。
「自分の話として書くが、自分の話じゃないって話」
ども。また長く書きます。誰宛なのか、いまいち分からない文章ですが。
少し前に読んだ本にあった「富める者と貧しい者との決定的な違いは、貧しい者は欲望に弱い」という言葉は、実はかなりの強度も持って心に刻まれた。誰か他人の行動や生活を見る際も、自分の行動の無計画さで順調に物事が進まない時なども、この言葉が頭の隅で反芻される。ここで言う「貧しい」の定義は、「お金」と、そして実は「時間」がない状態を言う。それと同時に、かなり前に第三舞台の鴻上さんが雑誌に書いていた「演劇界には頭の良い人はいない。なぜなら頭が良かったら演劇など選択していないから」という戯れ言も最近になって思い出される。ちょっと感じるのだが、(僕の周りの)演劇人って昔より貧乏になっていると思うのだが、如何だろうか? ・・・「欲望に弱い」をもう少し解釈してみると、「短絡的な、無計画な、欲望に弱い」と言うことが出来ると思う。「長期的な、計画的な」目標も、それは人の「欲望」には違いないが、それはこれには当てはまらない。そして、成功している人の多くが、長期的な欲望を満たす為に、何らかの形で短絡的な欲望をセーブして生きていると言える。短絡的な欲望をセーブ仕切れなかった人は、大抵は、何らかの形でそのしっぺ返しを食らう。そこに人生においての「差」が生まれる。
そして、そんなことを合わせて考えるに、舞台演劇に集まる人は総じて「短絡的な、無計画な、欲望に弱く」、そもそも舞台演劇こそが「短絡的な、無計画な欲望」のジャンルと見なして良いのではないかと想像してみる・・・ 直接の僕の芝居は、参加にあまりお金がかからないように工夫はしてあると思う。自腹を切らなくていけない金額は少なく済むように。ただ、だが、演劇を志す人々の基本的な指向として演劇なんかをやっていることをバロメーターとした「短絡的な、無計画な、欲望に弱い」側面があるなら、まあこのことはあまり関係ないのかも知れない。演劇そのものにお金や時間を割いていることが原因ではなく、演劇を選んだ指向にすでに、原因が内包されている、と想像を巡らせてみる。…ちなみに、「欲望に弱い」のバロメーターは、演劇以外だと、酒、喫煙、外食、TV、ゲーム、ネットサーフィン、などが上げられる。これを書くと一気に腑に落ちる人が増えると思うのだが、如何だろうか?
…そしてそんなことが原因で結果的に貧しくなる。「お金」と「時間」の2つのどちらか、あるいは、両方に対し「ない、ない」言っている日々。計画的に物事を進めることが出来ず、短絡的に目の前の何かにお金や時間を浪費することで、確実に僕らは貧しくなっていく。本当は、貧しいのは単に収入より支出が多いから。それだけ。なぜ多くなってしまうのかは、分不相応な生活をしているから。あるいは最低限必要な労働もしていないから。それだけ。ただ、演劇をやっている人は着実にそういうことを選択している。
そして、それに今の日本社会、この時代認識を考えに加えてみよう。・・・今、日本の少子化問題から考えることが出来る未来の展望は、国が国を維持するための税収を上げるためには、外国からの労働者をかなり大勢受け入れるしかない、ということが考えられる。それが誰であれ数としての労働者がいないと国は保っていかないのだ。それが自分達とどう関係してくるかと言うと、交換可能なフロー労働者が占める労働市場は、将来多くの外国人労働者で占められるということなのだ。誰でも出来る仕事、日本人である必要が特にない仕事は、どんどん僕らの前から消えてくる。アルバイト的な、一部の契約社員的な仕事は目の前から激減する。それが現在、そして少し先の未来…
ほんの少し前、終身雇用制度が崩壊し、雇用のあり方が短期契約労働を増やす中で、年齢、年代に関係なくアルバイト的な、契約社員的な仕事が「ある」時代になってきていた。それを良いことに(ある意味悪いことに)本当なら継続か退陣かを迫られる時期があってしかるべきなのに、それを経ず、多くの演劇人が何となくのモラトリアム的なまま舞台演劇を続けてきてしまっていた。だが、考えるに、これはどう考えても一時的なものに過ぎない。交換可能ではないコア労働者としての位置付けを得られていない中では、少しずつ、安い賃金で雇える外国人や、また健康で低賃金で雇える若い世代の労働者に自分の社会的な居場所は追われる…、と考えてもいいのではないか。今後、舞台では収入は得られない形で演劇を続け、他のアルバイト的な仕事で収入を得る、という小劇場のポピュラーな芝居の形は、学生演劇ならまだしも、二十代後半から三十代、四十代では困難になってくる。と想像する。…最近、世界同時株暴落の影響から、リストラに踏み切らざるを得ない企業のニュースが後を絶たない。特に米国でだが、遅れて欧州や日本にもやってくるだろう。でも、リストラで救われる状態ならまだマシな方だろう。大企業でこれなんだから、倒産に追い込まれる会社がどれ程あるか… 景気が冷え込みモノが売れない時代、会社にとって人件費、雇用にかかる費用から削減するしか道はないのだ。それはダイレクトに僕らの生活を直撃するに違いない。
今、この日本社会で「今までのように」舞台演劇を続けることは非常に困難だ。「今までのように」舞台演劇を続けることは、どう考えても非常に頭の悪い行為だと言える。だって「今までのよう」だと、いつか自分は沈没するのだから。そして沈没した時に、その時の社会でまともな仕事に就けたり、まともな生活に入れるかは疑問だ。イメージとして、「野垂れ死ぬ」という言葉がリアルに感じられる。だから、考えてみよう、選択肢は2つだけ・・・、2つ! どこかでちゃんと見切りをつけて演劇を辞めるか、「今までのように」ではなく、「今まで」を検証し、今までとは違う形で演劇を続けるか、この2つ!
さて、今ちょっと、自分がこの日本社会において、コアな人材になる道を考えるべきだと考えてみる。交換可能ではない「技術」、あるいは技術以外の「何か」を得て、そのことで実績を上げながら「仕事」にしていく方向を模索するべきだと提案するとしよう。それは至極当り前の提案だ。
それは、社会そのものが変化するのだから、すでに存在している形のやり方、仕事ではないかもしれない。だが、この自分を取り巻く社会を計算に入れ、また、自分に出来ること、やりたいこと、そのやりたいことを実現する時間やコスト、そういったものをキチンと考えに入れた時に見えてくる風景には、(どんなにそれに対して、同時に不安を感じても、それには)、説得力があるに違いないと思うのだ。今までなかった形には不安がつきまとう。・・・自分の話になるが、自分にとって、今、すでに得ている交換可能ではない「技術」、あるいは技術以外の「何か」を使って何かをしようと考えた時に思うのは、自分なら、やはり今のお金のためだけの仕事を早々に辞して、舞台演劇、表現の仕事に専念すべきだ、と考える。僕にとっては、どの角度から考えても、舞台に関する仕事が特に交換可能ではない技術職であると考えるのだ。・・・上記してきたことと矛盾するようにも見えるだろうか? 確かに、少し前に2つの選択として「演劇を辞める」と書いたばかりだ。だからこれは、・・・
「今までのように」ではなく、「今まで」を検証し、今までとは違う形で演劇を続けるか、
・・・、についての話だと言える。自分の話として続けよう。五十の脚本執筆に、七十の舞台演出、舞台監督や役者などで係わる百を越える舞台経験、美術、音響、照明、公演の制作から小劇場の運営に関する知識等々、TVやコンサートやバレエ等の大道具経験、海外での舞台監督経験もこの十年で十都市になる。…舞台に関して、分からないことは少ない。と言っていいと思う。僕にとって、演劇の継続がかえって、今のこの日本社会に相応しい方法と考えても差し支えがなさそうだ。・・・ここまで続けてきてしまったのである。舞台演劇の何たるかを考えることもなく、上記みたいなことも考えず、そんな時間も余裕もないまま、兎に角ここまで来てしまった。そして他のどんな技術よりもここでの「技術」が一番身についてしまった。これは自分の話。
さて、でも、ことは自分の話ではなく、もっと広い意味での話。兎に角、演劇人は今、貧乏だ。(僕もそれは変わらず)その原因は、短絡的な欲求を満たすことに終始し、長期的なプラン、長い時間を掛けて達成されるような目標に向かって動いたりしていないから。家計簿も長期的なプラン表も持っていない。俳優個人も、カンパニー単位でも。せめて「次」が決まっているくらい。来年の今頃に(三年後、十年後に)自分が何をどうしているか、自分で知らない。「目標」とか「達成」とかとは無縁に暮らしてきている。仕事も総じて安定していない。もちろん収入も。公演に誘われれば、その作品や集団と自分との関係でしか決定の材料にしていない。未来につながる何かを活動の選択の時に計算に入れていない。未来につながる何かを一つの活動から何も得られていない。ただ今があるだけ。未来の為の今が存在しない。例えば、今財布に入っているお金との関係だけで(今の気分で)すぐに外食や飲酒に走ってしまうのと同じだ。長期的な視野から何かを考えたり、決定したりしてはいない。今の活動から、何か将来的に役に立つ何かの習得を考えていない。新しいことの学習が計算に入っていない。せめていい作品の上演が最良のことになってしまって、そこからつながる「その先」が視野に入っていない。終わったら忘れ去られる「いい作品の上演」なんて人生においては大した意味なんてないのに・・・ と思うのだがどうだろうか? 「演劇界には頭の良い人はいない。なぜなら頭が良かったら演劇など選択していないから」と言っている道を実際に歩んでいるだけのように感じるのだが、どうだろうか? 「貧しい者は欲望に弱い」道を言葉通りに実践しているだけのように見えるのだが、どうだろう? そしてどんどん変わり行くこの現在進行形の日本経済の中で、実はかなりやばい窒息寸前のようにも見えるのだが、実際どうだろうか? オブラート一枚隔てた向こう側は地獄…、になっていないだろうか?
今すぐにでも、それぞれが自分の今を検証するべきだと思う。そして ≪交換可能ではない「技術」、あるいは技術以外の「何か」を得て、そのことで実績を上げながら「仕事」にしていく≫ 方向を模索するべきだと提案したい。まず、すでにそれに値する「何か」があるなら、それを生かす方向を考える。あるいは、今は何もないと思うなら、今からそれに値する「何か」を習得する方向を考えたい。そして、さらに付け加えるなら、演劇人としての自分はどうか? をプラスで考えてもらいたいのだ。
あらためて、今、自分が演劇に係わる際の姿勢、頭で考えていることを検証してもらいたい。僕が稽古場で伝え続けている幾つかは、単にその一作品に係わる中だけで終わってしまうことではなく、肉練を必ずやる意味も、句読点ずらしや言葉と動作を分断した作品アプローチも、一字一句間違えない、決定されていることの量が質になる、というスタイル、稽古場で稽古したことだけしか本番では発表できないことも、すべて長く舞台俳優として板の上に立つ上で重要な「技術」だ。誰か上の人から交換可能と思われない為には、必要なことを稽古してきている。今この瞬間にしか役立たないこと、ではなく、むしろ今しかやらずその後は忘れ去られる意味では本当に意味のないことだと思う。長く舞台俳優として活躍できる為の「武器」になるものとして考え、行なってきているのだから。…そして、そういう経験を通して、あなたにとっての≪交換可能ではない「技術」≫が、≪舞台に係わること≫であってほしいと強く望む。僕は演出家として、一人の演劇人として強く希望する。決して一人では何も実現できないこの舞台演劇というジャンルで、僕の身近に有力な人材を持っていたいと心から願う。もちろん、僕自身のために。しかし、それは同時に僕と一緒に歩む一人一人のために。
だが、これは、誰彼構わずへの「演劇への誘い」では決してない。自分の人生や未来が今、実はどれだけヤバくなっているか考え直して、幻想を追い払った上でちゃんと考えてほしいという、んー、単なるお節介だ。僕は僕自身、正直自分の未来が不安だ。自分の資質にダメだと思う部分があって、例えばそれはまさに上記した「欲望」についての話だが、それを何とかしたいと思っている。自分個人だけでダメなら、どうせ集団で作り上げるジャンルにいるのだから、強力な協力者を得て共に何とかしたいと思っている。そして周囲を見回し、やはり様々な不安にかき立てられる。客観的に自分や自分達を見た際の、現実の評価、実際の実力、舞台に対する姿勢が、正直、僕には物足りない。どう見ても決して満足出来るような状態ではないと、言わざるを得ない。僕の話している意味が分かりますか?
2008年10月、今回RAKUENOH+の公演を終え、考えたのは以上のようなことなのです。それは自分の作った作品への不満などでは決してなく、しかし、この悪い方へと変わり行く世界、世界経済、日本の社会の中で、そして演劇界を思う時、「もっと」だと素直に思うから。です。「強度」と言っていいものだと思う。「もっと、強度を」僕個人も。係わる俳優も。カンパニーとしての実力も。
個人が沈没する話を書いたが、気付いている人は気付いていると思うが、今沈没していっているのは「世界」の方だ。そして、多くの個人が世界の沈没に巻き込まれて酷い目に遭い、一部の人は何とか自分のボートを見つけて助かる、それがこの星の未来の展望だ。何も気付かず、何も考えず、そして何も行動せずにいたら本当、最初に捲き込まれ、溺れるのは演劇なんてことをやってきた連中だろう。ここは、明らかにボートが少ない海なのだ。本当、そう思う。そして、そうならない為には…、もう一度繰り返すが、…どこかでちゃんと見切りをつけて演劇を辞めるか、「今までのように」ではなく、「今まで」を検証し、今までとは違う形で演劇を続けるか、だ。どっちにしても、一時の欲望に負けず、長期的な展望の中で着々と何かを得ていく道を選ぶ、それしか方法はない。
そしてもし、考えた上で、今までと違う形で演劇を続ける、を選択するなら、まあ、ウチでやっていったらどうだろうか? と思うのだが、これまたどうだろうか? あなたのライフ・プランを聞かせてほしい。
ラクエンオウ・プラスは、仕方がないので、また少し厳しくして行こうと思う。
RAKUENOH+ 長堀博士
2008/10/24
前の話でマルクスなんて出しちゃったから、少し… 資本主義って言うのは市場の競争によって社会が成長する仕組みだと簡単に考えてみましょう。例えばある種類の商品が競争によって性能がどんどんアップしてきたり、安く売られるようななったりします。また、その商品の代わりになるような新しい商品が生まれ、代替りをし、新しい競争が始まります。…今まで日本は、実はかなり国のコントロール下にその競争を置いていて、しかし、それが安定した社会を作ってきました。さて、マルクスって人は昔々、資本主義の競争には限界があって、競争の果てには労働者の賃金を下げることでしか方法がなくなり、怒った労働者の革命が行って社会主義が誕生すると言ったのです。はい、半分は当たっていますね? 今現在日本は資本主義の最終局面にあって、労働者の賃金を下げることでしか社会を維持出来ないところまで来ています。しかし今現在、ご存じのように多くの社会主義国家が次々と資本主義的競争へと移行する中で、社会主義革命なんて起きるわけがありません。考え方には素
晴らしい点のある社会主義ですが、もうダメだと今ではばれてしまいました。ではこの社会は一体どうなっていくのか?? …昔、英国という国が同じような局面を迎え、そしてサッチャーって人の政策で、今現在も英国は世界の金融の中心である地位を失っていません。ウィンブルドン効果、と呼ばれることには、マイナスの意味も含めて成功の意味が強い。実は小泉さんもサッチャーさんを真似て色々やったんですが、…残念、中途半端で反って社会は悪くなってしまいました。…はっきり言って今の日本は衰退の途上にあります。政治には景気を回復させ労働者の賃金を上げさせる能力が(意向が)ありません。労働者には、しかし社会をどうにかしようという意欲がありませんね。今、かつてないほど未来に展望がないのが今の時代と言えます。賃金は下がり、普通賃金が下がると物が売れませんから物の値段も下がるのですが…、山崎パンが値上げして売れなくなった分を値上げの利益が上回り儲けた実績を作っちゃったので、…物の値段は上がり、僕達の生活は危機に瀕しています。
…最近、目に見えて、ものすごい勢いでコンビニやファーストフード店に外国人労働者が増えてきましたね。企業にとって、人を使うことに日本人を雇うほどにお金が割けなくなってきているバロメーターです。終身雇用制度が崩壊したって言われている社会で、外国人労働者が簡単な単純労働の市場を占めはじめている。んーこの恐ろしさ分かります? 僕は税収を上げ国を保たす為には外国人移民をかなり受け入れないとダメだとは考えています。子供が極端に減って行く中で、誰でもいいから納税者足る労働者を増やさないと本当に日本は滅んでしまいますので。でも、例えば夢を持って舞台演劇というやりたいことの為に、最低限の生活費はアルバイトで、なんて生き方を選んでしまった人にとっては、今変化してきている日本社会はかなり過酷だと言わざるを得ません。仕事がない、仕事が選べない、あるのは安い賃金の過酷な肉体労働で、それが多くの低所得者を生み出し、夢を抱く意欲を奪って行く…
これが、今僕らが生き、そして演劇活動をしている社会の内実です。そして、それを知った上で、さーてどう戦おうか? と考えるべきだと僕は考えているのです。この社会の衰退は確実に僕らを生きにくくさせますが、でも、この社会だからこそ意味も意義もある芸術活動ってものがあると思うのです。…そろそろ次回公演の宣伝もせねば。この話の続きは、また。
オリンピックの開会式問題について、どう考えるべきだろうか? 日本ではあれは偽りでダメだと言う意見が主流だが、中国では良い効果、結果の為にはアリだと言う意見が主流だ。それは自国開催だからというだけではなく、根本的なものの考え方の差に違いない。言うまでもなくアリだと言う発想は後進国のものの考え方と言わざるを得ない。…ものの値段には二種類あると言ったのはマルクスではなかったか。一つは販売する時に表示する普通の『値段』。これは生産者側の利益に大きく関与する。もう一つが『価値値段』、ってネーミングでしたっけ。それが食品なら食べたら美味しい、とか、表示に偽りがないか、安全か、などの本当のそのものの価値としての値段。消費社会の中で、この二種類の値段が合っていることが望ましい。わけですね。生産者、販売者側のモラルが…、と取り沙汰される昨今ですが、要は価値値段の低い商品を高く偽装してという『二種類の値段の不一致』が問題なわけです。中国産を沼津産と偽って、でも食べて美味しかったんだから良いじゃあないか、と
はならないのは価値値段との不一致があるから。オリンピック開会式が、見て面白かったんだから良いじゃあないか、とならないのは、やはり価値値段がもっと低いとどんどん露呈してきているからなのです。そう言えば町を行く仕事中、くわえ煙草で料理の仕込みをやっている魚屋とかラーメン屋とかを見かけるのですが、職場ではあそこは行くなとすぐ話題に上ることを思い出します。いくら美味しくても価値値段の低い店には客は流れないのです。お芝居で、稽古場日誌や出演俳優などの個人のブログで、稽古の様子や舞台裏などでが垣間見えることがあります。その時にきちんと自分の仕事…、俳優なら稽古を頑張っているかなど、が見られないと観客はその公演を見に行く気持ちを失います。稽古場の写真などがあると、そこは稽古中に携帯をいじることを許しているユルーイ現場で、俳優が自分の仕事をやってないと見なされます。無名な出演俳優の舞台裏での“素”の面白エピソードなどを読むと、時間を掛けて稽古をして作り上げた表現者としての“役”の魅力が台無しになる気が
します。与えられた役、決められた台詞でしか社会に発信出来ないことが俳優が俳優である魅力を引き上げるし、素の魅力などは僕ら芝居仲間が知っていれば良いことだと思うのですが、どうでしょう。演じ作り上げた虚構の自分ではなく素の魅力で公に出ていきたいのならば、舞台演劇というジャンルは向かないと思うのですが、これもどうでしょう? 少なくとも稽古場日誌やブログが上演作品の価値値段を引き下げることになるならば、…と危惧するこの頃です。見て面白かった作品が、実は賞味期限の書き換えによって行われていたとバラす行為の横行で、演劇界全体への信頼が損なわれないことを心から祈ります。
“今ここ”に対し不満を持ち、苛立ちや辛さを抱え、何とかしたいと何かの『行為』に走ることから、歴史に残るような偉業が生まれることも少なくない。“今ここ”への気付き、そこから脱出しよう、…とするまでは、そこまでは多くの偉人達と社会の中での一種の失敗者とは同じなんだ。
“今ここ”への不満から、未来に向かって、二つのかなり両極端な選択肢が生まれた。選ぶのは自分だ。想像力を駆使して、先の先まで読み、これからの具体的な行為の選択こそ重要だと肝に命じて…… 走り出す。気が付いたらきっと、正しい脱出道を走る中で、“今ここ”の不満からスタートしたって理由すら意味のないものに変わるに違いない。走る疾走の具体にこそ、強い意義が宿る!
セマイ世界に閉じ込められて生活している君へ。ナイフを振り上げてまで手に入れたい解放、自由は…、確かにそれは解放や自由に違いない…、けど、誰あろう自分自身の未来を暗く、闇に閉ざす。社会やモラルや人の生命なんかの為でなくていい、自分自身のほんの少しの先の未来の為に。ただ自分の為に。…自らの知と想像力を発揮してほしい。
…もし尾崎豊が生きていたら『夜の校舎窓ガラス壊して回る』より、『夜の校舎窓ガラス壊して回る』気持ちを抱えながら、それでも『夜の校舎窓ガラス壊して回らない!』ことがスゲーんだと話してくれる日が来たに違いないと思うのだ。頭の良い彼のことだから、きっとそんな日が来たに違いない。いつかこのことを言う為にも尾崎には生きていて欲しかったなぁ、、 話が古いですか(笑)
君は私の中の深刻さに理解者はいないと思っているに違いない。残念なことに身近に相談者は存在しなかった。けれどそれでも、君の世界のセマサを決定付けているのは、壁でも、誰かでも、この世界の何物でもないんだ。自分自身。セマイ世界に自分を閉じ込めていることに、自分がかなりの量と質で加担しているんだ。理由に関しては、全部が自分の責任とは言えない。確かにそうだ。だが、行為に関してはすべてが自分の責任だ。
親や教師が教え忘れていることがある。親の世代でも出来ていない人が多いから仕方がない(笑) …『理由』には本当は価値がない。どんな正論の神聖な説得力のある『理由』を持ったとしても、『行為』の許しにはつながらない。『理由』なんてクソだ。言い過ぎか?(笑) 『行為』だけが独立して評価され、実は神聖にして美しい。『行為』にこそ説得力という力が宿る。どんなに納得の出来そうな『理由』があっても、やってはいけない『行為』はあるし、逆に、『行為』の正しさと説得力の前では、どんな『理由』だって霞む。
…それを、実は舞台演劇をやっている人は体で知っている。セリフの意味や物語の内容も、それがどんなに素晴らしくっても、演じる具体的な表現の素晴らしさがなくては、全部霞む。逆に、素晴らしい表現、表現力、表現者があったなら、話している言葉の意味も内容も関係なくなる。これは、上記した『理由』と『行為』のお話とまったく同じ。
それと、舞台の仕事では想像力ってヤツがとても大事だ。お芝居の稽古は本当は想像力合戦と呼んでもいいものだし、観客からの評価も、想像力で観客より優ることで決定的になる。…この文章の最初に書いたね。想像力を発揮してって。『行為』の正しさを決定するのが、実はこの想像力って力なんだ。だからこれも関係のある話。…過去や過去進行形や現在進行形にばかり目を向けないで、優れた棋士が何手も先まで読んで将棋を指すように、想像力を駆使して、未来…、自分の『行為』の顛末を読んで読んで読み切って、それで選択する『行為』こそが、正しい、説得力のある、常にそれは自らにとっては神聖ですらある『行為』なんだ。もう一度繰り返すが、『理由』に神聖さなんて宿らない。『行為』にこそ宿る力がそれなんだ。
一人で孤独の中、何とか“今ここ”から抜け出したいと願うのは辛いだろう。だいたい世界は理不尽に自分を苦しめたりする。けれど同じ孤独と辛さを、かなり多くの人が過去に、そして今も現在進行形で、感じて苦しんでいるのは事実なんだ。
そして僕も含めた全員、誰一人欠けることなく、例えナイフを振り上げるような『理由』を抱えたって、それでもナイフを振り上げないことが、スゲーんだと言う中に生きていってほしいと心から思う。それは、舞台という『表現=行為』の分野に生きる自分の、強い強い祈りだ。
『その人は考えごとがあると私を呼び出す。その人は私を横に連れて長く歩く。長く、かなり長く。…私は最初の頃は話があるんだと勘違いしたが、今はもう分かってる。歩くことは考えること。彼は歩きながら考えたいのだ。黙って歩くのは私だって苦手じゃない。私たちはあまり多くは語らないまま、ただ木々の間を歩いている。…本当は聞きたい。なぜこの『考えること』に私が必要なの? なぜ呼ばれたの? でも聞かない。聞けない。ちょっとだけお腹が痛くなる。…歩くことは考えること。考えることは歩くこと。考える。深く考える。深く。深く…… ああ、早くあの人から電話がかかってこないかな。私にだって考えることがたくさんあるんだ』
暗姫は孤独だ、
誰にも理解されていない、
妹の明姫は苦しんでいる、
好きな人に好きだと言われても、この世の中では素直に喜べない、
流流は旅をしている、
私だけの物語を探している、
暗姫はいい子だと思われている、
そのことで得をしているから自分の本性を出すことが出来ない、
明姫の病は深刻だ、
都合の悪いことはすべて記憶からこぼれ落ちる、
流流は故郷を振り返らない、
夜はよく眠るし朝はかなり早く起きる、
そして昼にはよく食べる、
暗姫を演じた百年前の女優はキレイだった、
けれど複雑な彼女の事情をなんにも理解していなかった、
けれど映画はヒットした、
明姫はこの展開だと自分が早く死ぬに違いないと思った、
それなら一つだけ叶えたい願いがある、
流流、君に会いたい、
生き別れた家族、旅をするもう一人の私……