まだまだ先に
まだまだ先に行きたいと思う。気持ちだけでなく具体的に考える。流れがなければ淀みが生まれる。足をすくう淀みだ。流れを常に絶やさない、停滞しない工夫はいつも考えて実行に移して行かなければ。「今」に十分満足しているなんて到底言うことは出来ないのだから。
世界を変える唯一の方法は自分が変わる、というものだ。世界は直接には変えることは出来ない。そういう風には世界は出来ていない。だけど、自分が変われば世界は変わる…、などと言うと、レトリックの話か、と勘違いされそうだ。本当は世界なんて変わってないのに自分が変わったから世界が変わったように見える、ってことだろ?と。しかしそれは違う。実際変わる。自分の変化は如実に自分を取り巻く環境に影響を与える。自分が変われば世界は変わるという事実は、その経験をした人にしか分からないかもしれない。でも、頑なに守ることでは突破出来ない壁を越えて次に行く為には、とにかく自分の変化を促して行くことしか出来ないのではないか。そう思う。
自分が「出来る子」だと思うことは容易い。自信を持つことは悪いことじゃない。雑誌やテレビなどを見て、自分とこいつとはレベルには差が無いな、と思うことだってあるに違いない。レベルは上だ、とも。評論家になる時は常に人は、自分の位置を高く引き上げる。解釈や判断の精度と引き替えに、それを論じられる自らの実体を誤解し始める。他人が分かる分、自分を見失う。
自分は「出来る子」なのに、今がこんななのは、運悪くまだ発見されてないからに違いない、と思うだろうか? 発見されればもっと取り上げられるに違いない、と。そう思っている間はその人が取り上げられることはないと僕は思う。本当に「出来る子」なら、とっくに自分はここにはいない。あそこに自分がいないのなら、それは自分が「出来ない子」だと思え、ということなのだと、そういうメッセージだと僕は考える。発見されてないだけ? 違うと考えなきゃ。理由はちゃんとある。もうすでに、常に自分はほぼ正しく評価されているのだ。評価された結果が「今」この自分自身、この場所。
自信を持つことは容易い。満足することも。自分が「出来る子」だと思うことは本当、簡単だと思う。でも、自分と世界との関係に何らかの不満があるなら、それは間違いかもと常に疑問符を投げ掛けて行きたいと思う。世界の側の方が気付いて、いつか自分を発見してくれたら、と待っていても、現状維持していても、きっと何も起こらない。何も変わらない。世界は僕らがどんなに頑張って外から揺さ振っても変わらない。都合良くなんて行かない。変えられるは自分だけ。自分なら変えられる。正しい自分が間違ってる世界の側に合わせて自分を変えるなんてプライドが許さないだろうか? 「出来る子」には、世界の側から擦り寄ってくるべきだと、それが理に適っている、だろうか?
…流れを絶やさないこと。世界と自分との関係。演劇人として、他人の視線、評価が常に基準になるのだという事実。今この瞬間、この場所で、成すべきこととは? どこに手を付けたらいいのか、ちょっと考えてみよう。