1991年に自らの戯曲を自身の手で上演する場として「楽園王」を旗揚げ。その後十数年を経て現在では演出家としての側面が強く、長堀戯曲にこだわらずに古典戯曲、優れた文学作品などもレパートリーに加えている。「戯曲=詩」の考えから「耳からの聞こえ」にこだわった独特の語りと様式美を追求。15周年公演終了を機に「RAKUENOH+(ラクエンオウ・プラス)」と改名し、新しい俳優の発掘、育成にも力を注ぎながら、時代を担う新しい才能の発信を目指している。演出作品数は古典、自作合わせ約70本、のべ500人以上の俳優を演出してきた。執筆脚本数は約50本、「エッシャーの絵に中に迷い込んだよう」と、迷路やパズルに例えられることの多いその物語作品は、謎の中で迷子になった登場人物たちの変化や成長を描くことで、爽やかな感動を呼ぶ。(あるいは絶望も…) /
2002年、05年に「Shizuoka春の芸術祭」((財)静岡県舞台芸術センター主催)へ、日本を代表する若手演出家の一人として招聘、「利賀演出家コンクール」((財)舞台芸術財団演劇人会議主催)には第1回から最多の6年連続で出場。その後、同コンクールでは審査員を務めた。(財)舞台芸術財団演劇人会議、会員。2004年の「利賀演出家コンクール」、イヨネスコ作「授業」にて「優秀演出家賞」を受賞。 /
2008年より渋谷のギャラリー・ルデコでの演劇祭「旬の観たいもの展」(略して「旬観た」)のプロデューサーを兼任。 /
2009年から、川越市連雀町にある「ギャラリーR+」の経営も始める。 /
その他、ステージサポート、舞台監督、音響などの仕事も多く、OM-2(黄色舞伎團)の舞台監督としては東京だけでなく、ベルン(スイス)×2回、アテネ(ギリシア)、ベルリン(ドイツ)×2回、シテティン(ポーランド)、プラハ(チェコ)、上海(中国)、シカゴ(USA)などでの海外公演の経験も積んでいる。
09年春には山の手事情社ルーマニア公演での舞台監督の仕事を行った。
僕は、…勇気を出して言うが…、実は天才ではない! 少なくとも今のところそんな片鱗は見えていない。期待していた方には大変に残念なお知らせになってしまった。
だが、努力によって自分を高める秀才ではあろうと願い、絶え間なくそれを繰り返したいとは思っている。まだ結果は出ていないが。
自分が芸術家であるかどうか? 正直それもあやしい。だが一人前の詐欺師として騙すなら騙し通してやろうと思う。すべては結果論だ。歴史が語る時、振り返り、ああ、あいつは芸術家だったと言われればそれは芸術家に違いない。過去形で天才だったと言わせる仕掛けを作ることは可能かもしれない。もしそんな未来が訪れるなら、過去は改変され偽物が本物になる。
自分が何者であるのか? 時の流れを利用して未来に、過去形で語らせることでしか出ない答えもある。今は意志を持って行動につなげていくしかない。
…なんちゃって。
人生とは冗談の連続だ、確かなのは死ばかりなり、と考えると腹も立たなくなる。今は多忙に次ぐ多忙、という幸福を、兎に角こなして行かなくては。ところで、宝くじに高額当選した人と、リストラに遇い会社をクビになった人とでは、そりゃその直後では幸福の度合いは違う。しかし6ヶ月後、改めて調査すると二者の幸福感には差がなくなると言う…… それは人間にある環境適応という能力のなせる術。長くそれが続けば人間はそれに慣れてしまう。幸か不幸か、それを決定するのが自分の気持ちなら、環境適応によって自分はいつでも幸福を見つけることが出来るようになる。だが、基準を自分にすることは本当に正しいか? ……環境適応は人間に仕掛けられた罠だ。偽りの幸福感に慰められ、行うべき努力を行うモチベーションを損ない続ける。だから、大切なのは自分の気持ちなんて基準にしないこと。常に誰か他者との『比較』によって自分の今を点検すべきなんだ。そして、でも、……、それでも人生とは冗談の連続だ(笑) それで本当の幸福を手にできるな
んて誰が決めた? ここに、達観が生まれる。
……調べること、知ること、分かること、努力して行うべきことを行い続けること、しかし、それに見合った対価は支払われないこともあるということ、それを人生の冗談と笑い飛ばすこと、そして、でも、努力は続けること…… その一連のすべてを満たして、それを幸福と呼んでみても良いような気がする(笑) さあ、山積してる仕事に戻ろう。もうすぐ11月情報、更新します!!
まだまだ先に行きたいと思う。気持ちだけでなく具体的に考える。流れがなければ淀みが生まれる。足をすくう淀みだ。流れを常に絶やさない、停滞しない工夫はいつも考えて実行に移して行かなければ。「今」に十分満足しているなんて到底言うことは出来ないのだから。
世界を変える唯一の方法は自分が変わる、というものだ。世界は直接には変えることは出来ない。そういう風には世界は出来ていない。だけど、自分が変われば世界は変わる…、などと言うと、レトリックの話か、と勘違いされそうだ。本当は世界なんて変わってないのに自分が変わったから世界が変わったように見える、ってことだろ?と。しかしそれは違う。実際変わる。自分の変化は如実に自分を取り巻く環境に影響を与える。自分が変われば世界は変わるという事実は、その経験をした人にしか分からないかもしれない。でも、頑なに守ることでは突破出来ない壁を越えて次に行く為には、とにかく自分の変化を促して行くことしか出来ないのではないか。そう思う。
自分が「出来る子」だと思うことは容易い。自信を持つことは悪いことじゃない。雑誌やテレビなどを見て、自分とこいつとはレベルには差が無いな、と思うことだってあるに違いない。レベルは上だ、とも。評論家になる時は常に人は、自分の位置を高く引き上げる。解釈や判断の精度と引き替えに、それを論じられる自らの実体を誤解し始める。他人が分かる分、自分を見失う。
自分は「出来る子」なのに、今がこんななのは、運悪くまだ発見されてないからに違いない、と思うだろうか? 発見されればもっと取り上げられるに違いない、と。そう思っている間はその人が取り上げられることはないと僕は思う。本当に「出来る子」なら、とっくに自分はここにはいない。あそこに自分がいないのなら、それは自分が「出来ない子」だと思え、ということなのだと、そういうメッセージだと僕は考える。発見されてないだけ? 違うと考えなきゃ。理由はちゃんとある。もうすでに、常に自分はほぼ正しく評価されているのだ。評価された結果が「今」この自分自身、この場所。
自信を持つことは容易い。満足することも。自分が「出来る子」だと思うことは本当、簡単だと思う。でも、自分と世界との関係に何らかの不満があるなら、それは間違いかもと常に疑問符を投げ掛けて行きたいと思う。世界の側の方が気付いて、いつか自分を発見してくれたら、と待っていても、現状維持していても、きっと何も起こらない。何も変わらない。世界は僕らがどんなに頑張って外から揺さ振っても変わらない。都合良くなんて行かない。変えられるは自分だけ。自分なら変えられる。正しい自分が間違ってる世界の側に合わせて自分を変えるなんてプライドが許さないだろうか? 「出来る子」には、世界の側から擦り寄ってくるべきだと、それが理に適っている、だろうか?
…流れを絶やさないこと。世界と自分との関係。演劇人として、他人の視線、評価が常に基準になるのだという事実。今この瞬間、この場所で、成すべきこととは? どこに手を付けたらいいのか、ちょっと考えてみよう。
マイペースというと、他の人と違う、って意味に感じ勝ちだけど、そんな意味は無い。自分のペースが他の人と同じだっていいし、むしろ、そんなにペースというものに差異があるわけではない。マイペースが他の人と同じペース。それはそれでいいのに、なんか、他の人と同じであることがいけないことのような錯覚が・・・ 行ける時は並んで歩こう。・・・と、忘れないうちにメモしておく。
…本当は「後付け」だと言うことは、少なくとも自覚していなくてはならない。馬鹿正直に世間さまに告白する必要はないが、人間、平気で自分で自分すら騙せっちゃうからね、「後付けだろ? その説明」って、そりゃ、自分では分かってないと… ね? これはかなり最高峰の「知」である。「無知の知」に近し。
もちろんこれは、「後付け」を否定してる訳じゃない。歳喰うと分かるんだ、必要だよ、確かに、説明ってヤツは(笑) でも…
…自分の敵は、自分でちょっと考えるよりずっと自分自身だ。自分で自分を騙してる。とか。自分で過去の自分の真似ばかりし出す。とか。それは気付いてなきゃならないのに油断すると… 社会の中で他人に見せる為に作った幻や言葉の罠に、自分で落っこちたりするんだ。
と、忘れないうちにメモしておく。
「RAKUENOH+」の表記を漢字の「楽園王+」もありにしました。どうぞよろしくお願いします。
で、名前、ネーミングについて考えてみます。ご存知の方はご存知のように、僕の書く芝居の多くで、登場人物には名前が設定されていません。「男1」とか「男」となっていて、作中に誰にも呼び掛けられなければ、名無しのまま芝居は終わります。逆にたまたま作中にもし呼び掛けられる場面があったら、その人物がかなり少ない登場でも名前が設定されます。これがテレビや映画のシナリオだったら、こんなことはあり得ません。映像の世界のシナリオでは、実際はどこにも誰にも名前を呼ばれる場面がない人物に対しても、かなりに脇役にいたるまですべてに名前と年齢、職業を記さなくならないのです。舞台の世界では…、舞台の世界でも、かなり映像の世界の慣習に習って登場人物に名付けを行う場合が多いようです。でも、映像の世界では「どうしても必要だから」やっていることなのですが、舞台…、特に僕の暮らしている小劇場の世界では映像の場合の「どうしても必要だから」が希薄です。なので時々、僕のように「舞台上誰にも呼び掛けられないなら」名前は無しのまま
って戯曲が書かれたりもします。
…そもそも名付けとはなぜ行われるのでしょうか? それは上記した僕の作法が理に適っていると思うのですが、呼ぶのに困るから、です。名付けないと他の誰かと区別してその人だけを呼んで特定するのに困る…、困るのは本人ではなく周囲の人達(社会と言い換えてもいい)ですから、もちろん名付けとは本人の為ではなく、周囲の人達の為に行われる… 名前は実は自分の為にある訳ではなく、自分に係わる他人達の為にあったのですね。先ず最初に困るのが親か、それに近い人達だから、名付けはその人達が行う。それは、単に自分が赤ちゃんで自ら名付けを行うなんて出来ないから親が付けている、ってだけでなく、周囲(社会)の為の名前ですから、名付けの権限は常に自分以外の誰かなのですね。名付けとは、社会が自分に捺す一種の刻印みたいなもの、とイメージしても悪くはないかもしれません。そして、記号論の話を持ち出すまでもなく、社会的には(身体の誕生だけでは足りず)名付けで初めてこの世の中に存在することになるのが、この世の生きとし生けるものの運命、と
言って良いでしょう。あ、生きてないモノも同様です。ある意味、名前こそ自分の本体で身体の方が付属物とも言えます。
あだ名の話をすると、名付けの決定権がどれだけ自分にないかが分かりますが、ま、話が長くなるので皆、経験と照らし合わせて下さい。
時々改名をする芸能人がいますが、その改名で、改名が原因で成功した人はあまりいませんね。先ず改名の理由が運勢とか、本人と名前との間の本人にしか関係ない因縁の物語だけの場合では、かなり高い確率で失敗しているように思われます。名前という社会的なものと個人の思いみたいなものとは、実は親和性が高くはないのですね。逆に社会的な外側からの理由で換わる場合では、うまく行く例が多い気がします。パッと考えても、松任谷由実とか、さまぁ〜ずとかクリームシチューなど、思いつきますね。自分で名付けるということではなく、他人に名付けられた、という形を(形だけでも)取っているところが重要です。…上記したように、名前こそ本体、という側面があります。改名は単に名前を換えるだけにとどまらず、前の自分の死と新しい自分の誕生くらいの意味があります。身体が換わらない分、気持ちが悪い違和感が伴うことも少なくない。すべてをゼロから始め直す、と言えばプラスのイメージにも感じられますが、それに払われる代償も実はかなり大きいのです。改名の
難しさが伝わりますか? それくらいの代償が伴うことなのですね、名前換えるって…
改名の代償が大きい…、と分かった上で、今回「RAKUENOH+」から「楽園王+」へと表記を換える…、ある意味では、戻す、ことにしました。
「楽園王」は元々、「03」ってすぐになくなってしまった雑誌のハワイ特集の表紙の、「楽園」のゴチック文字のインパクトから名付けられました。1990年の終わりくらいだったでしょうか。記事ではカメハメハ大王の話も出てきましたから、「楽園王」とはカメハメハ大王のこと…、と言っても過言ではありません。そして無理矢理連想をつなげるなら「ドラゴンボール」の「か〜め〜は〜め〜波!!」をイメージしてもらっても僕的にはありです(笑)
それを「RAKUENOH+」に改名したのには、もちろん、それが裏切りに近い印象を与えることを分かった上で、その時期、過去と決別し新しく誕生し直す都合が内面的にはあって、また、具体的には、ソニーなど多くの国際的に活躍する日本企業がかなり早い段階からアルファベット表記にして将来の発展に備えていたことから、英語表記へと改名したのでした。僕らが抱く劇団のビジョンは、かなり大きいものです!って表明のつもりもあって。
だが一個、実は問題がありました。単純な問題…、RAKUENOH…とアルファベットで書いて普通に頭から読むと、ラクエノウ(あるいはラクエノホ?)…、になってしまう…、音響メーカーの「デンオン」が「DENON」から「デノン」って読みを主流に変えてしまった流れを受け入れようにも、ラクエノウでは落ち着きも悪く、また、そもそも何て読むか分からない、って印象を与えてしまう… 実は「RAKUENOH+」になってから、しばしば「何て読むの?」って質問を受けていたのですが、分かっていたことは言え、かなり心を動かす体験だったのです、その質問は…
そして今回、名前は自分の為ではなく自分を呼ぶ人の為、って考えに至り、やはり分かりやすいことこそ重要、とプラスはそのまま、漢字表記に戻すことにしたのです。それはそれで、ある人から見れば裏切り的な、違和感のある行為だと知りつつ、また、ある意味では、一つの(マイナスの効用も分かった上での)死と再生の行為だと知りつつ…
ただ、名付けと言う決定権が実は他人にある行為を自ら行うことを念頭に考えるに、「楽園王」を「RAKUENOH+」にした内面理由より、今回の「RAKUENOH+」に漢字表記を加える方のが、いくばくが受け入れられ安いのでは?とは考えています。でも、それでも僕には、そして集団にとってはかなり英断的な行為ですが。
…そして、このことに伴う「誕生(再生)」や「出発(再出発)」のイメージを忘れてはならない。と思ってます。これは、さりげなく実は「転機」に他ならないのです。社会とのつながりについて、…それは今の大変な世界経済についても考えに入れての…、より深くより重く考える時期に来たのだなぁ、と思うのです。
ちょっと話がズレますが、今の僕達が直接触れる世の中は「平和」です。基本的にこの「平和」を謳歌し、「平和」を愛してます。でも実は貧富の差は激しく、かなり多くの人の「不満」や「不幸」を飲み込んだ上で成立している「平和」だと言うことも、…もう様々な人が肌で体感しているでしょうが、事実です。「上」に管理され暴動も革命も起きることなど想像も出来ませんが、実は歴史的に見て、かなり世の中が乱れる水域に達しているのでは?と思っているのは僕だけではないでしょう。もし時代が求めて優れた先導者(扇動者)が現われたなら、すぐにも壊れてしまうような微妙さの中に世の中はあります。「平和」を愛する力は、時に今の偽りの「平和」を捨て、血を流してでも次の本物の「平和」を勝ち取りたいと動くことだってあるのです。演劇は音楽のライブと並んで、歴史が動く時にはそんな扇動に利用されてきた側面があるので、世の中が乱れる時期のそういう動きに敏感です。何の政治的なメッセージのない演劇をやっていても、不特定多数を一ヶ所に集めて行う集会と
いう意味では取り締まりの対象になりかねない… 新型インフルエンザを故意にばら撒いて世界を滅ぼそう、なんて芝居をやっていると、あ、ヤバいかなって思ったり… …ってくらいを考えなくてはならないのが、今の時代を生きる一演劇人の社会認識です。「転機」と言うなら、そんな社会の中で文化を担うという意味を、どうしても考えないわけにはいきません。
…というわけで、「楽園王+」を今後とも、どうぞよろしくお願いします。もちろん「RAKUENOH+」ってアルファベット表記もデザイン的には多用すると思いますが。えっと、明るい芝居もやります! はい、こんな時代だからこそ、何かヒントになるような作品を上演して行きたい。ほんと、よろしくお願いします。ぜひ劇場で会いましょう。…改名のお知らせでした。(楽園王+ 長堀)